西暦79年8月24日午後1時頃に発生したヴェスヴィオ火山の大噴火で消失したポンペイ。
蓄積した火山灰の空洞に、石膏流し込んで、逃げ惑う人々の遺体をリアルに再現したことはよく知られています。
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一夜にしてポンペイ市民が全員亡くなってしまったように思うかもしれませんが、実はそうではありません。
20,000人の市民のうち、犠牲になったのはおよそ2,000人です。
では生存者は一体どこへ行ったのでしょうか?
マイアミ大学のSteven Tuck教授が発表した調査結果で、生き延びた人々は、クーマエ・ナポリ・オスティア・ポツォリに難民として生存していたことが明らかになりました。
本記事では、ヴェスヴィオ火山の大噴火で消失したポンペイの生存者がどこへ行ったのか、解説していきたいと思います。
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ポンペイとは
ポンペイはイタリアのナポリ近郊にかつて存在した都市です。
ぶどうの産地として有名で、主な産業はワインの醸造。
港に届いた荷物をローマへ運ぶための重要拠点として、商業都市として栄えました。
また遺跡からは娼婦館が多く発掘され、男女の交わりを示すフレスコ画も多く存在したことから、現在は「快楽の街」とも呼ばれています。
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西暦79年8月24日に発生したヴェスヴィオ火山の大噴火で、ポンペイは火砕流に飲まれ、灰に埋もれて消失しました。
1740年頃から始まった発掘作業は、現在でも継続中です。
火山灰の中に街が埋もれていたために、壁画や美術品などの劣化が最小限に抑えられていたため、当時のローマ帝国の栄華の様子を知ることができます。
宗教儀式を描いた壁画の鮮やかな色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれ有名です。
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2021年2月には、ポンペイ遺跡付近で装飾を施した馬車が、ほぼ完全な形で発掘されたことがニュースになりました。
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ポンペイが消失した時の様子を伝える手紙
ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが書いた手紙が、ポンペイの当時の様子を知ることができる貴重な資料とされており、この手紙をもとにポンペイの様子が語り継がれています。
以下はその1つで、緊迫した状況が伝わってきます。
The ground shook beneath our feet and the sea looked like it was being sucked backwards. Many Sea Creatures were left on the sand beached by the sucked out sea. Behind us were terrifying black clouds. At the top of Mt Vesuvius there was a huge fire that looked like lightning but bigger.
(中略)
Now the dust came although it was still thin at this point. I looked behind me to see a thick black cloud looming closer pouring across the land like a huge flood.
(中略)
You will read what I have written no doubt but you won’t rewrite this because this is not the material of history.
Farewell
「地面が私たちの足の下で揺れ、海は後方に吸い込まれているように見えました。たくさんの海の生き物が、吸い出された海のそばにある砂の上に残っていました。私たちの後ろには黒い雲が見えて怖い。ヴェスヴィオ山の頂上には、雷のように見える大きな火がありました。
現時点ではまだ細いものの、今はほこりが降ってきました。大きな黒い洪水のように、地面を横切って近くに注ぐ厚い黒い雲が見えた。
あなたは私が書いたものを間違いなく読むでしょうが、これは歴史の資料ではないのであなたはこれを書き直すことはありません。
さようなら」
ヴェスヴィオ火山大噴火の生々しい様子が伝わってきます。
海が引いていくことも書かれていますので、大きな津波があったことも分かります。
当時の人々は混乱のなか、逃げ惑ったに違いありません。
また、こちらの映画でも、現在語り継がれているポンペイの様子をリアルに再現しているので興味がある方はご覧になっても良いかもしれません。
「世界ふしぎ発見!」で新事実発見!ポンペイ最後の日は10月17日より後だった?
2019年6月29日に放送の「世界ふしぎ発見!」で、歴史が書き換えられる新事実の発見が放送されました。
番組情報によると、ヴェスビオ山の噴火が「西暦79年10月17日よりも後」だったことが判明したようです。
これまでは、ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが書いた手紙をもとに「西暦79年8月24日」にヴェスビオ山は大噴火したとされています。
しかし、現地の人でも近づけない場所にあるポンペイ遺跡の邸宅の壁に「10月17日にオリーブオイルの瓶を代わりに受け取った」と書かれているのが発見されました。
また、発掘隊が見つけた他の証拠からも、少なくともヴェスビオ山の噴火は「夏ではなく秋だった」ことが分かったようです。
- ザクロ
- イチジク
- クルミ
など、秋に収穫されるものも発掘されています。
発掘責任者によると、プリニウスの手紙は現物が残っているものではなく、書き写して伝えられているものなので、その途中で日付を書き写し間違えたのではないかと説明しています。
これまで300年近く事実だと信じられてきたことが、1度の発見で覆るのは、考古学の面白さでもありますよね。
8月か10月か、どちらが真実なのかは私たちには分かりませんが、ポンペイという都市があったこと、そこで生活していた人がいたことは紛れもない真実です。
明らかになったポンペイ生存者の行き先
マイアミ大学のSteven Tuck教授が発表した調査結果が、LIVE SCIENCEに掲載されていたのでご紹介いたします。
タック教授は、ポンペイの人々がどこへ行ったのか判断するために、文書・碑文などに書かれている内容を基準にしました。
- ポンペイとへルクラネウムで明らかに区別できる「姓」が西暦79年以降にどこに現れたのか
- ポンペイで信仰されていた神々が、別の場所で現れていないか
- ポンペイ近郊の街で、79年以降に大規模な公共インフラ整備がされていないか
これらを手掛かりに、ポンペイ市民がどこに行ったのかを調査しました。
その結果、いくつかの事例を確認することができたようです。
碑文から明らかになったポンペイ生存者の行先
クーマエ
生存者の1人「Cornelius Fuscus」という男性はローマの軍隊に所属し、ルーマニアでの戦争で亡くなりました。
碑文には、「ポンペイの植民地出身で、その後ナポリに住み、軍に加わった」と記載がありました。
また、ポンペイの「Sulpicius家」はクーマエに移住したことが分かりました。
ポンペイ近くの道で、持ち逃げようとした金庫が発見されます。
金庫の中には財務資料が入っていて、Sulpiciusがクーマエにビジネスパートナーがいたことが明らかになりました。
ナポリ
難民となったポンペイ市民同士は、定住先で結婚することがあります。
「Vettia Sabina」という女性は、ポンペイ市民と結婚しナポリで生活していたことが分かりました。
Vettia Sabinaが埋葬された、家の墓には「HAVE」という碑文が書かれています。
「HAVE」はポンペイの方言で「歓迎(welcome)」という意味があり、住宅の玄関先に記載して人々を迎え入れている家もあったようです。
ナポリで使われることのないポンペイの方言が使われていることから、Vettia Sabinaがポンペイ市民であることを明らかにしました。
公共インフラ整備から分かったポンペイ生存者の行先
また、Steven Tuck教授は、ローマ皇帝タイタスが、西暦79年前後に難民受け入れ先の街に資金援助をしていることを発見しました。
実際には、このお金はポンペイ市民のものです。
亡くなったポンペイ市民のうち、相続人がいない人が持っていた資産を皇帝タイタスが回収し、それを難民受け入れ先に与え、公共インフラ整備に充てていました。
このことからも、生存したポンペイ市民が近郊の都市に移住していたことが分かります。
このように、20,000人近いポンペイの生存者は、難民として近郊の都市に移住し、生活していました。
ポンペイに戻りたかったでしょうが、発掘されるのはポンペイが消失してから1500年以上経ってからになります。
まとめ
ヴェスヴィオ火山の大噴火で消失したポンペイの生存者がどこへ行ったのか、解説いたしました。
西暦79年当時の交通手段は徒歩か馬なので、ポンペイ市民が遠くまで行けたとは考えにくいですよね。
多くの人は南イタリア近郊のクーマエ・ナポリ・オスティア・ポツォリに難民として生存していたようです。
当時の様子が再現されたポンペイ遺跡は、多くの事を私たちに伝えてくれます。
一度訪れて、肌で感じてみても良いかもしれませんね。
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